皆さん、ご機嫌よう! タカミックスです。
今回はバンドの顔であった天才ギタリスト、リッチー・ブラックモアがディープ・パープルを脱退してしまった後の第四期ディープ・パープルについてです。
リッチー・ブラックモア脱退後にディープ・パープルのギタリストとなったのは、バンド初のアメリカ人ギタリストであるトミー・ボーリンでした。
トミー・ボーリンが加入した第四期ディープ・パープルは1975年11月にアルバム『カム・テイスト・ザ・バンド』を発売します。
今でこそ『名盤』と呼ばれている『カム・テイスト・ザ・バンド』ですが、長いこと『迷盤』と呼ばれていた過去があります。
そんな第四期ディープ・パープル、そしてトミー・ボーリンについてです。
それでは行ってみまShow!
目次
どうなる、ディープ・パープル?
バンドの顔であったリッチー・ブラックモアが去ってしまい、ジョン・ロードとイアン・ペイスはデープ・パープルを解散させる心算でありました。
また、グレン・ヒューズもディープ・パープルの解散は止む無しと考え、過去に所属していたバンド、トラピーズを立て直す心算であったそうです。
しかし、デイヴィッド・カヴァデールだけはバンド解散を良しとせず、ディープ・パープルの精神的リーダーであったジョン・ロードにバンド継続を訴えます。
この時にディープ・パープルの解散は止む無しと考えてたグレン・ヒューズでしたが、同居人であったデヴィッド・ボウイに(凄い同居人だな…)バンドは解散させずに新しいギタリストを見つけるんだ! と説得されたそうです。

新ギタリスト候補者
リッチー・ブラックモアが脱退したディープ・パープルは、バンド継続のために新ギタリストのオーディションを開始します。
第三期ディープ・パープルのリードボーカルにデイヴィッド・カヴァデールが決定するまでの紆余曲折を知っていただけに、リッチー・ブラックモア脱退後の新ギタリストはアッサリ決まったと思っていました。
しかし、実際は新ギタリストの決定は第三期の新加入メンバーを探す以上に困難を極めたそうです。いつまでたっても決定しないギタリストにディープ・パープルは解散の話まで出たそうです。
そんな難航した新ギタリスト探しで候補者も沢山いたのでしょうが、表立って報道された候補者はクレム・クレムソンくらいです。
クレム・クレムソン
そのクレム・クレムソンですが、1975年に所属していたバンド『ハンブル・パイ』が解散してしまいます。そこでフリーとなったクレム・クレムソンはディープ・パープルのギタリストオーディションを受けたそうです。

クレム・クレムソンといえば言わずと知れた? 超いぶし銀のギタリストです。
どうやらクレム・クレムソンは結構本気でディープ・パープルに加入したがっていたと聞きます。
もう一人の候補はジェフ・ベックだった?
あとディープ・パープルの新ギタリストはジェフ・ベックになる予定だったという話もありました。
しかし、ジェフ・ベックは周りが勝手に名前を上げた与太話だったのが、真しやかな話になってしまったそうです。当然ディープ・パープル側からはオファーすらしていません。

2023年1月に逝去されたジェフ・ベックですが、若き日のジェフ・ベックはリッチー・ブラックモアと双璧をなすワンマンぶりだったそうです。後年の好々爺となったジェフ・ベックからは想像が付かないですけどね…
なので噂とは言えジェフ・ベックの名前が上がった時点で、ジョン・ロードやイアン・ペイスは気難しい性格をしているギタリストの加入は御免だったのでは? と思われます。
ただし、ジェフ・ベックに関しては意外な所で第四期ディープ・パープル(のある人)と関係していますが、取り敢えず一旦は置いておきます。
トミー・ボーリンの加入経緯
オーディションの末に決定した新ギタリストはトミー・ボーリンです。
この人の加入経緯は諸説ありますが、どうもイアン・ペイスが1973年に発売されたビリー・コブハムのリーダー・アルバム『スペクトラム』をデイヴィッド・カヴァデールに聴かせ、それを聴いたデイヴィッド・カヴァデールがスペクトラムでギターを弾いていたトミー・ボーリンをディープ・パープルの新ギタリストに推薦したと言うのが正解みたいですね。
なおトミー・ボーリンを新ギタリストに推薦したデイヴィッド・カヴァデールですが、彼が知っていたのは『スペクトラム』でギターを弾いていた、と言うことだけ! なのでデイヴィッド・カヴァデールはトミー・ボーリンが若いのか年寄りなのかも知らなかったそうです。
ジェフ・ベックとトミー・ボーリン
その『スペクトラム』とジェフ・ベックについいてです。
ジェフ・ベックはビリー・コブハムの『スペクトラム』を聴いた時、トミー・ボーリンのギターに非常に感銘を受けたそうです。
そんなトミー・ボーリンのギターに感銘を受けていたジェフ・ベックですが、『ベック・ボガード&アピス(以下BBA)』のセカンド・アルバムの制作中である1974年、BBAは解散してしまいます。これはジェフ・ベックとドラマーであるカーマイン・アピスの不仲が原因だそうです。
BBAと言う足枷がなくなったジェフ・ベックはソロアルバム『ブロウ・バイ・ブロウ』の制作に取り掛かります。このブロウ・バイ・ブロウを作るにあたってジェフ・ベックはトミー・ボーリンを意識していたと言います。
なのでジェフ・ベックのブロウ・バイ・ブロウとは、トミー・ボーリンのギタープレイに大いなるインスピレーションを受けて制作されたアルバムとなる訳です。
ただしソロアルバム後
そのトミー・ボーリンは非常にジャジーなプレイもするギタリストです。
まず、ディープ・パープル加入のキッカケとなったビリー・コブハムの『スペクトラム』ですが、ビリー・コブハムはジャズ・ドラマーです。
トミー・ボーリンは非常に多岐に渡るギタープレイを駆使する人で、ディープ・パープルの新ギタリストに決定したのにも関わらず、ディープ・パープルのアルバムレコーディングは自分のソロアルバム『ティーザー』のレコーディングが終わってからにしてくれ! と言ったそうです。
何故ディープ・パープルだったの?
さて、トミー・ボーリンはディープ・パープル加入以前から既に凄腕のギタリストでした。ジャズ・フュージョン系からブルースロック系までプレイしていました。
トミー・ボーリンのソロアルバム『ティーザー』ですが、参加ミュージシャンはジェフ・ポーカロ、フィル・コリンズ、ヤン・ハマー、デヴィッド・サンボーン、ナラダ・マイケル・ウォルデン等、ジャス&フュージョン系のミュージシャンが参加しています。
そんなトミー・ボーリンのギタースタイルや適応ジャンルを考えると、ディープ・パープルの様式美って合わない気がするんですよね。
ディープ・パープルにはミスマッチ?
確かにデイヴィッド・カヴァデールとグレン・ヒューズが入ってファンク&ソウルディストが加わったディープ・パープルでしたが、それだけでトミー・ボーリンがディープ・パープルを選んだのか? と思います。
しかし、音楽性云々は全く関係なくて、トミー・ボーリンにとってディープ・パープル加入の理由は、多額のギャラが貰えたからだそうです。
何せディープ・パープルに加入したことで、結構な額のギャラを手にしたと言います。なのでトミー・ボーリンはディープ・パープル脱退後に2枚目のソロアルバムを制作しても、お釣りが来る程の金額を手にしたそうです。
ただし、2枚目のソロアルバム『當墓林 (魔性の目)』に関しては、ディープ・パープルでのギャラと合わせてソロアルバムを契約したレコード会社からも前払いでギャラを貰っていましたが、そのギャラを関係者に掻っ払われたとか。
なので、非常に低予算で製作されてしまったトミー・ボーリンの2作目のソロ・アルバムである『當墓林 (魔性の目)』は音質が悪いんですね。
何だ彼だ言って音質は重要なんだよ…
実際にはジェイムス・ギャングでもミスマッチだった?
さて、トミー・ボーリンのディープ・パープル加入が決まった際、一部の人間からトミー・ボーリンは「よりによってディープ・パープルに加入したのか?」と言われていました。それくらいスペーシーなアメリカンサウンドのギタリストだったトミー・ボーリンがディープ・パープルの様式美に合うのか? と言ったジャンルの違いから来る疑問でした。
しかし、トミー・ボーリンがディープ・パープル以前に3代目ギタリストとして所属したバンド『ジェイムス・ギャング』でも「よりによってジェイムス・ギャングに加入したのか?」と言われていたのです。
ジェイムス・ギャングは歴代ギタリストでジャンルの違いはあれど、基本的に泥臭いロックバンドでした。そこに風合いの違うギタリストであるトミー・ボーリンが加入したのです。
ジェイムス・ギャングの加入に対しても賛否両論だったんですね。
とは言っても、トミー・ボーリン自身はジェイムス・ギャングの初代ギタリスであったジョー・ウォルシュの推薦でジェイムス・ギャングに加入したそうです。

ジョー・ウォルシュはジェイムス・ギャング脱退後に自身のバンド『バーンストーム』を結成するも2年で解散、そしてあのイーグルスに加入して『ホテル・カリフォルニア』でギターを弾いてた人です(もっともジョー・ウォルシュは作詞作曲には携わっていないが…)。

ギター・プレイ
ミックスの個人的見解になりますが、トミー・ボーリンのギタープレイに関しては、それぞれのパートがフィーリングは同じなのに別のギタリストが弾いてる様に感じます。
少し伝わり辛いかもしれませんが、例えるなら『アキレス最後の戦い』のラストソロをジミー・ペイジとジェイク・キスカで代わる代わる弾いてるみたいな… 感じでしょうか?
作曲能力は期待されてなかった…?
『カム・テイスト・ザ・バンド』のレコーディングが開始以前、ジョン・ロードとイアン・ペイスはトミー・ボーリンに対してリッチー・ブラックモアの様な作曲まで期待していなかったそうです。
その理由はトミー・ボーリンの『ティーザー』が発表された直後に『カム・テイスト・ザ・バンド』のレコーディングが始まったからでした。
ジョン・ロードとイアン・ペイスはトミー・ボーリンが『ティーザー』で自分のアイデアを出し切っていたと思っていたそうなんですね。
しかし、『カム・テイスト・ザ・バンド』のレコーディングが始まると、トミー・ボーリンはディープ・パープルでも次々とアイデアを出してきました。これにはジョン・ロードとイアン・ペイスは尽きることのないトミー・ボーリンの作曲能力に驚いたそうです。
カム・テイスト・ザ・バンド?
アルバムタイトルである『カム・テイスト・ザ・バンド』なのですが、題名の由来はトミー・ボーリンのオーディションで、ジョン・ロードが弾き出した『キャバレー』と言う曲の歌詞をトミー・ボーリンが「カム・テイスト・ザ・バンド」と歌い間違えた所から取られたと言いますが、この『キャバレー』って誰の歌だ?
オリジナルはルイ・アームストロングで、時代的には1972年に映画化された『キャバレー』のことか? 確かに歌詞の中で「カム・テイスト・ザ・ワイン カム・ヒア・ザ・バンド」とあるけど、ギタリストのオーディションで演奏する曲じゃないしなぁ…
いったい誰の曲だったんすかね?
意外な事実? ベースも弾いてたトミー・ボーリン
さて、カム・テイスト・ザ・バンドではトミー・ボーリンがベースを弾いている曲があります。それがアルバム一曲目の『カミン・ホーム』です。
タカミックスは初めてカミン・ホームを聴いた時、余りのアメリカンな曲調に「軽っ!」と思いましたが、今では好きな曲ですね。
カミン・ホームはアルバムのオープニングナンバーですが、この曲のレコーディングは一番最後に行われたそうです。
しかし、ベーシストだったグレン・ヒューズが当時コ○イン中毒の挙句に肝炎に罹ってしまい、その治療でアルバムのレコーディングが行われていた独逸の民顕から英吉利に帰っちまったそうです。
コ○インと聞いて連想してしまうのは(実際はヘ○インなのだが)トミー・ボーリンですが、実は当時のグレン・ヒューズもシッカリとした(?)ジャンキーだったりします。
だからと言うわけでもないのでしょうが、グレン・ヒューズとデイヴィッド・カヴァデール、そしてトミー・ボーリンの3人は意気投合し、ディープ・パープル解散後に新たなバンドを作る計画まであったそうです。
話が逸れましたが、急遽ベーシストがいなくなってしまったディープ・パープルは、グレン・ヒューズの代役としてトミー・ボーリンがベースを弾いたのでした。
タカミックスもカミン・ホームのベースがトミー・ボーリンとは知りませんでした。カミン・ホームでのベースは結構ブリブリ鳴っているので、グレン・ヒューズの音と言われても全く違和感ないですからね。
しかし、改めて聴いてみると、確かにコーラスでグレン・ヒューズの声が聞こえない! グレン・ヒューズが参加してないことを知るまでは、最初からグレン・ヒューズが曲に合わせたコーラスをしているものだと思ってました(笑)。
ギターセッティング
トミー・ボーリンのセッティングで面白いのが、ストラトキャスターのセンターピックアップをメインに音作りをしていることです。
リッチー・ブラックモア好きは当然反応すると思います。なにせリッチー・ブラックモアはディープ・パープル時代はセンターピックアップを全く使いませんでした。それどころかセンターピックアップの配線を抜いてたくらいです。
リッチー・ブラックモアがセンターピックアップを使わなかったのはサウンド面の問題ではなく、単純にピッキングの邪魔になるからと言うのが理由でした。

ではピッキング問題ではなく、センターピックアップのサウンドはどうなのか? の話ですが。ここではノイズ問題は別にして考えてみます。
ピックアップ | 音色 |
リア | 鋭く固い |
センター | リアとフロントの中間 |
フロント | 柔らかい |
タカミックスもストラトがメインギターだった頃はリアピックアップをメインに音作りをしていました。ハードロック系の音だとリアピックアップの硬質な音の方が合いやすいんですよね。
どうしてもサウンドセッティングと言うとギターの種類やエフェクト、アンプに目が行きがちですが、トミー・ボーリンの場合は意識的にストラトキャスターではセンターピックアップを使っていたのですね。
アルバムは最高! ライブは…?
さて、ここでトミー・ボーリンが中々評価されていなかった(特に日本で)理由です。
これは共演したミュージシャン全てが言っているのですが、ドラッグの悪癖が合ったからです。
なにせトミー・ボーリンは恋人にすらドラッグの悪癖に愛想を尽かされ振られたくらいです。
イアン・ペイスも後年語っておりますが「トミー・ボーリンは天才だ。スタジオでは素晴らしいプレイをする。ただアレが有ることまでは知らなかったんだよ… だからライブは散々な出来だったね」
アレとはドラッグのことですね。このトミー・ボーリンのドラッグの入れ込みは酷かったらしく、中身を確かめもせずドラッグを使用していたほど。これはディープ・パープルに入ってから輪を掛けて酷くなっていたらしく、ライブでのトミー・ボーリンのプレイは良い時(シラフ)と悪い時(ジャンキー)の差が歴然とする様になってしまいました。
そんなジャンキーでプレイに影響をきたす様になっていたトミー・ボーリンですが、ディープ・パープル加入後の来日公演前、『カム・テイスト・ザ・バンド』のプロモーション・ツアー中のジャカルタにてトミー・ボーリンは左手を怪我してしまいました。
ここでジャカルタのプロモーターは痛み止めのモルヒネだと言って粗悪品のヘロインを渡したらしいんです。
ジャカルタから次の公演地である日本への移動中、トミー・ボーリンはモルヒネと偽られたヘロインを摂取し、左腕を頭の下に置いたまま気絶してしまいました。
このため来日公演でのトミー・ボーリンの左腕は自由に動かず、チューニングを変えた複数のギターとソロはボトルネック奏法を多用する結果となってしまいました。

お陰で日本公演ではトミー・ボーリンがギターを弾いてる最中、方々からリッチーコールが! ただでさえリッチー・ブラックモアの幻影を求めているファンからの心無い声が(まぁ、あの演奏じゃな…)トミー・ボーリンを追い詰めて行くのでした。
トミー・ボーリンの悪癖
トミー・ボーリンのドラッグ傾倒はディープ・パープル加入以前のジェイムス・ギャング時代もコ○インの接種はしていたそうです。

どうもトミー・ボーリン=コ○イン接種=ディープ・パープルでのプレッシャーから、と位置付けたがりなのですが、ジェイムス・ギャング時代がらドラッグの悪癖はあった様です。
ただ、ディープ・パープルではカリスマギタリストであったリッチー・ブラックモアの後任とのことで、新ギタリストのトミー・ボーリンに対するリスナーの罵詈雑言が酷く、評論家達もトミー・ボーリンの演奏は素晴らしいのに「これはディープ・パープルではない!」とアメリカンな雰囲気&ファンキー&ソウルフルな第四期ディープ・パープルをこき下ろしました。
このことが更にトミー・ボーリンのドラッグでの悪癖に輪を掛けて行ったのです。
ディープ・パープルを知らなかった?
また、トミー・ボーリンはカリスマギタリストであったリッチー・ブラックモアについても、と言うよりディープ・パープル自体を良く知らなかったそうです。
ディープ・パープルのファンにとっては少し悲しい話なのですが、トミー・ボーリンはディープ・パープル初のアメリカ人ギタリストと記しましたが、アメリカでのディープ・パープルはスモーク・オン・ザ・ウォーターがヒットした程度の認知度だったんですね。
トミー・ボーリンは多額のギャラに惹かれてディープ・パープルに加入したのですが、もしリッチー・ブラックモアが狂信的なファンのいるカリスマギタリストと知っていたら、果たしてトミー・ボーリンはディープ・パープルのオーディションを受けていたのでしょうか?
タカミックスは好きなギタリストです
タカミックス、トミー・ボーリンのギターフレーズ大好きなんですよ。
これ、リフとか曲作りって意味じゃなくて、単純にギターのみならトミー・ボーリンは1,2番目に好きなギタリストですね。
タカミックスも初めてカム・ディスト・ザ・バンドを聴いた時は全然ディープ・パープルじゃないな、と思いました。単純に「明るい!」「陽気だ!」ってイメージだったんですね。別に嫌悪感を抱いて視聴した訳ではないのですがバンドのイメージって言うんですかね? この辺はリッチー・ブラックモアも明るい曲は弾いているのですが、ギタリストのキャラの違いなのでしょうね… ほらリッチー・ブラックモア = 気難しい、根暗。トミー・ボーリン = ヒッピー、明るい、みたいな感じですかね?
カム・ディスト・ザ・バンドを聴き始めた頃、タカミックスのヘビーローテーションはゲッティン・タイターくらいでした。グレン・ヒューズの我水を得た魚(うお)のごとくとファンキーな歌声と、トミー・ボーリンのファンクテイスト溢れるギター! 痺れましたね。
まぁ、デイヴィッド・カヴァデールの声が聞こえないのは置いときましょう(笑)。
I NEED LOVE
現在タカミックスが好んで聴くのは『I NEED LOVE』です。
ラストのギターソロ、2本で掛け合いながら弾いてる訳ではないのですが、何回聴いても2人のギタリストがプレイしてる様に聴こえます。
これ以外の曲も好きですね。カム・ディスト・ザ・バンドに関しては純粋にギターだけ聴いていても心地良いです。
ディープ・パープル解散
第四期ディープ・パープルは余りの音楽性の変化にファンも評論家もついて行けず、バッシングにまで発展していました。
このバッシングの多さに辟易としていたデイヴィッド・カヴァデールはソロアルバムを作りたかったことも相成ってディープ・パープを脱退してしまいます。
それに呼応するかの様にトミー・ボーリン、そしてグレン・ヒューズも脱退します。
トミー・ボーリンはライブ演奏はさて置き、ここまで“ディープ・パープルのギタリスト”としてバッシングされるとは思っていなかったでしょう。故に脱退したというのも納得です。
グレン・ヒューズもトラピーズ復活を試み(結局トラピーズのメル・ギャレーとデイヴ・ホランドがグレン・ヒューズのソロ・アルバムに参加した)ディープ・パープルを脱退してしまいました。
残されたジョン・ロードとイアン・ペイスですが、フロントの3人が抜けてしまってはディープ・パープル存続は難しかったのでしょう。ディープ・パープルの精神的リーダーでありながら、一説には自分からは何もしないと言われているジョン・ロードですから解散の話が出たのも頷けます。
ただ、第四期ディープ・パープルに関して、少なくともフロントの3人が音楽性の相違から脱退したことでないことは確かです。
少なくともグレン・ヒューズとトミー・ボーリンは仲良く曲を作っていましたからね。
解散にジョン・ロードは…
ジョン・ロードは非公式ですが第四期ディープ・パープルに対して「ディープ・パープルと名乗るべきではなかった」と言ったそうです。
まぁ、確かに良くも悪くもディープ・パープル=リッチー・ブラックモアみたいなイメージがありますからね。
トミー・ボーリンの最後
トミー・ボーリンはディープ・パープル脱退後すぐに自らのバンドを結成し、ソロ・アルバム『當墓林 (魔性の目)』の制作に入りました。そして『當墓林 (魔性の目)』が完成するとジェフ・ベックのツアーにトミー・ボーリンバンドとして帯同します。
よりによってジェフ・ベックかよ! と2人の因縁(と言うかジェフベックからの)を知る者として突っ込んだのはタカミックスだけではないでしょう。
當墓林
トミー・ボーリンのソロ・アルバムですが原題は『Private Eyes』です。日本では『當墓林 (魔性の目)』との邦題で発売されました。
この『當墓林』の当字が気に入ったトミー・ボーリンは自国発売の『Private Eyes』のジャケットにも『當墓林』と表記していました。
そのジェフ・ベックとの帯同ツアー中、佛羅里達は迈阿密の宿にてトミー・ボーリンは麻薬のオーバードースで亡くなってしまいました。
それぞれの道へ
ディープ・パープル解散後のメンバーは各々が新たな道へ進んで行きます。
日本での人気を考えると元ディープ・パープルの中では矢張り、リッチー・ブラックモアのレインボーが一番人気だったと思われます。

売上的にはデイヴィッド・カヴァデールのホワイトスネイクかな? とも思ったのですが、あえて1984年までと区切ると当時のホワイトスネイクはまだ中堅バンドでしたからね…
だが終わらない
こうして1968年のデビューしたディープ・パープルは1976年に解散してしまいます。解散後のパープルファミリーはそれぞれの道を歩み始めます。
しかし、1980年に、それぞれの道に進んだ筈の1人がとんでもない事件を起こします。もっとも、この事件が再びパープルメンバーが顔を合わせるキッカケとなったのですが…
この事件に関しては追って話します。

意外と短かった? 活動期間
この第一期から第四期までのディープ・パープルはライブ版も含めると都合12枚のアルバムを発表しております。しかも第四期ディープ・パープルに関してならアルバムは1枚しか出しておりません。
現在の音楽シーンで、これだけの枚数のアルバムを発表していれば超ベテランバンドでしょうが、第一期から第四期までのディープパープルの活動期間は8年間と意外と短かいのです。
もし、第四期ディープ・パープルがバッシングに晒されず、トミー・ボーリンも脱退していなければ、カム・テイスト・ザ・バンド以降の第四期ディープ・パープルがどの様なプレイを聴かせてくれたのだろう? と気になります。
きっとトミー・ボーリンはデイヴィッド・カヴァデールとグレン・ヒューズの気も音楽性もマッチした3人でハードでファンク&ソウルフルな音楽を更に広げていたかと思われます。
しかし、哀しいかなディープ・パープルの名前は、バッシングと燦々たるライブ活動のために最終的に解散という形で音楽シーンから消えていったのでした。
一旦おしまい