皆さん、ご機嫌よう! タカミックスです。
さて、そこそこデビューアルバムが売れた第1期ディープ・パープルですが、これを意外に思っていたのは他でもない契約先のテトラグラマトン・レコードでした。
いやいや、売り出したレコード会社が一番驚いてるって何やねん! と言った感じで、今回はデビュー2枚目のアルバムとなる『詩人タリエシンの世界』についてです。
目次
詩人タリエシンの世界
さてデビューアルバムであったハッシュの予想外のヒットに商機と勝機を見出したテトラグラマトン・レコードは、何とデビューアルバム発売の3ヶ月後にセカンドアルバム『詩人タリエシンの世界』をリリースしました。
詩人タリエシンの世界(原題:THE BOOK OF TALIESYN)
タリエシンとは有名な吟遊詩人の名前で『タリエシンの書』は実際にある写本のことです。
なのでセカンドアルバム『詩人タリエシンの世界』もコンセプトアルバムなのかと思いきや、オープニングナンバーでタリエシンの名前が登場するだけ。次曲以降はタリエシンとの関係は一切ありません。
『詩人タリエシンの世界』の原題は『THE BOOK OF TALIESYN』です。このアルバムから本国イギリスでもEMIハーベスト・レコードから発売されました。
日本では『ディープ・パープルの華麗なる世界』とのアルバム名で発売され、後に『詩人タリエシンの世界』に改題されました。
アルバム制作期間
このセカンドアルバムになる『詩人タリエシンの世界』ですが第1期ディープ・パープルは何と10日間でセカンドアルバムのレコーディングを終了しています。
もっとも第1期ディープ・パープル側は1ヶ月ほどレコーディング期間を設けていたらしいのですが、リッチー・ブラックモアの演奏クオリティが非常に高く、ミステイクらしいミステイクもなく、撮って出し状態でレコーディングできたそうです。
詩人タリエシンの世界でのギターは?
この詩人タリエシンの世界でのリッチー・ブラックモアはギターを弾きまくっております。実質的に狂気のギタリスト、リッチー・ブラックモアがデビューした感じです。
しかしセカンドアルバムはデビューアルバムほどは売れず、シングル曲となったニール・ダイアモンドのカバー曲『ケンタッキー・ウーマン』も全米チャートで22位と、全米4位を記録したハッシュと比べるとヒットとは言えない物でした。
詩人タリエシンの世界での音楽性
この詩人タリエシンの世界では全7曲中3曲がカバー曲となっています。
カバー曲の中ではベートーヴェンやチャイコフスキー、シュトラウスの(『ツァラトゥストラはかく語りき』の人)がイントロやフレーズが散りばめられております。
この様に他のバンドとは違うんだぜ! と言う気概を見せつつ、前作ハッシュ以上にハードエッジの効いた作品となっています。
リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイは、前奏で結構クラシックを取り入れてあり、ハンパなクラシックギタリストであるタカミックスは「そこまで長くする必要あったのか?」と思ってしまいます。
ただ初めて第1期ディープ・パープルを聴いた時は、コレがアートロックか! なんて思ってましたけどね。
この辺の捉え方は人それぞれですが…
A面B面
現在の音楽は配信がメインです。音楽配信以前のCDですら流通しているのは日本のみと言われるほどです。ジャニーズ事務所なんかは一部を除いて頑なに音楽配信を拒んでますからね。
それはさて置き、配信やCDが登場する以前の音楽業界でのメインはレコードでした。正確に言うなら1987年まではレコードが主流だったのです。
そのレコードとはCDとは違いA面B面、余するに表と裏があったのです。なのでリスナー側はA面が聴き終わったらB面に… と自分でレコードをひっくり返して聴かなければなりませんでした。
すると敢えてA面B面で曲の雰囲気を変えてくるアーティストも出てくるのです。この『詩人タリエシンの世界』でもA面B面とで曲の主導者が変わります。
A面はどちらかというとリッチー・ブラックモア主体でハードな曲作り、B面はジョン・ロード主体でクラシカルな曲作りとなっています。
ロッド・エヴァンスのボーカルスタイル的にはジョン・ロードがメインで曲作りをしていたB面の方が歌いやすかったのではないでしょうか?
活動拠点はアメリカ?
そして『詩人タリエシンの世界』が発売された後にロッド・エヴァンスがチョット問題提起をします。
セカンドアルバム発売後に再びアメリカツアーに出た第1期ディープ・パープルですが、ロッド・エヴァンスが活動場所をアメリカのみに絞ろう! と言い出したのです。
確かに第1期ディープ・パープルはデビューアルバムがアメリカでソコソコ売れてるのに、本国イギリスではレコード契約すらされていないバンドでした。
このセカンドアルバムはイギリスで発売されたのは1969年の7月です。アメリカで発売されたが1968年10月なので本国イギリスの方がアメリカよりも発売が8ヶ月以上も遅かったのです。なお日本では1969年の6月に発売されているので本国イギリスより1ヶ月も発売が早かったのです。
この様なことからロッド・エヴァンスがアメリカを活動拠点に… と言い出したのも分からなくはないのです。
しかしロッド・エヴァンス以外の第1期ディープ・パープルのメンバー、特にジョン・ロードとリッチー・ブラックモアはロッド・エヴァンスの活動拠点はアメリカ! の意見に反対しました。
が、実はロッド・エヴァンスがアメリカを活動拠点に… と言い出したのは建前で本当は違う理由なのでは? と言う説もあります。
彼女はアメリカ人
その理由とは、ロッド・エヴァンスの彼女がアメリカ人だったからです。アメリカ人の彼女と懇ろの仲になったロッド・エヴァンスは一時(いっとき)も彼女と離れたくなかったんですね。
俳優になりたかった?
アメリカ人の彼女以外の理由ではロッド・エヴァンスがハリウッド俳優になりたがっていた説もあります。
ロッド・エヴァンスはアメリカツアー中に知り合ったハリウッド俳優と懇意にしており、どうやら自分も俳優業に色気を出していたと言うのです。
いやいや、ホントかよ? と疑いたくもなる話なのですが、ロッド・エヴァンスは消息不明なので本人の口から言質が取れません。なので後年周りの人間が言っていた言葉を信じるしかないですね。
ボーカルスタイルが違う?
ロッド・エヴァンスの彼女がアメリカ人説や俳優になりたかった説は置いといて、当時の第1期ディープ・パープルはアルバムこそアート・ロックで作られていましたが、ライブは結構ハードな演奏をしていました。
すると基本的にバラードシンガー的な歌声のロッド・エヴァンスはバンドでの居場所がなくなるのです。ただでさえディープ・パープルはインストルメントに力を入れており、ライブでは楽器隊のアドリブ合戦が20分くらい続いたりします。
そんなアドリブが長い曲だと第2期ディープ・パープルのイアン・ギランはコンガを叩き(聞こえないけど…)、第3期のデビット・カヴァデールはステージから掃けてました。
ジョー・リン・ターナー時代はアドリブ合戦自体がなかったはず…(またジョン・ロードとイアン・ペイスはジョー・リン・ターナーの加入に反対だった)
そう考えるとロッド・エヴァンスは何やってたんでしょうね?
バラードシンガー?
『詩人タリエシンの世界』での7曲目『聖なる歌』ですが、この曲ってロッド・エヴァンスとジョン・ロードの作詞作曲なんですね。そして『聖なる歌』はバラードです。
この曲のメイン作曲者が誰かは分かりませんが、もしジョン・ロードがメイン作曲者だった場合、ロッド・エヴァンスの歌にバラードを当てたとしたらジョン・ロードも彼をバラードシンガーだと思ってのかも知れません。
こんな感じでロッド・エヴァンスは自分の居場所がなくなるハードロックへ転換する(ジョン・ロードは別だっただろうが…)第1期ディープ・パープルの音楽性に異を唱えていたのです。
既に脱退は決まっていた? ロッド・エヴァンス
しかし第1期ディープ・パープル側は活動ジャンルを問わず、ロッド・エヴァンスのクビを検討していました。そして実質1969年の3月にはロッド・エヴァンスのクビが発表こそされていない物の決定していたそうです。
なので『詩人タリエシンの世界』がイギリスで発売された頃にはロッド・エヴァンスの脱退は決まっていたのです。
そしてバンドの内状的には問題作である『ディープ・パープルⅢ』が発売されるのです。
つづく